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2007-07-29 Sun 12:54
投票するのは義務ではありません。
『権利』です。 折角先人が掴み取った、勝ち得た『権利』。 『権利』を放棄していながら文句(増税反対等)を言うのは、何か違うのでは、と思います。 『権利』を行使してこそ大手を振って文句を言えるのでは。 それを踏まえた上で『権利』を行使せずに文句を言うのも一つの手段ですが。 兄 |
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2007-04-17 Tue 22:59
No more gun
私は殺されたくない 私は殺したくない No more gun 兄 |
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2007-04-04 Wed 16:27
私は文学が好きだ。特に純文学が好きである。パスティーシュ文学も好きなのだが、面白くないところが垣間見える純文学の方が好き。パスティーシュは私に似合い過ぎる。似合わない純文学の方が興味深い。捻くれっ子なのでこれは仕様がない。
パスティーシュは置いておいて、純文学が好きな理由。 「日本語の使い方が綺麗、漢字の使い方が綺麗、表現が綺麗」、大まかに無理矢理三つ挙げるのならばこんな感じだ。もちろん作品自体が面白いことが何より大事なのは言うまでもない。 逆に純文学の「うーん、ちょっとなぁ」というところ。 「時代背景が想像できない時、寺や神社の名前が度々出てくる時、立て続けに主人公が作家な時」、大まかに無理矢理三つ挙げるのならばこんな感じだ。もちろん作品自体が面白くなければ、それ以前なのは言うませもない。 好きな理由に対して「うーん、ちょっとなぁ」は自身のレヴェルが足りないからこそ発生する問題でもある。時代背景については如実にそうである。 寺や神社は興味がないので仕様がない。 主人公が作家の作品については、それ自体に閉口するわけではない。食傷気味になってしまうからだ。私が今まで読んできた純文学作品の多くは主人公が作家だった。『愛と死』、『人間失格』、『暗夜行路』、『若き日の思い出』、これらは主人公が作家だ。 主人公が作家の作品が嫌いなわけではない。むしろ大好きだ。しかし、好きだからといって集中して食べ過ぎては顔を見るのも嫌になる。半年間はこりごりだ、と思うこともある。実際にそうなったこともしばしば。 何が言いたいのかというと、好きだからといって必ずしも好きでなければいけないわけではない。必ずしも面白いと感じなければいけないわけではない。概念や思想に縛られ、凝り固まってしまうのは「うーん、ちょっとなぁ」である。 ましては強要なんてのはもっての外だ。特に「愛国心の強要」なんてのは冗談でも面白くない。 日本に生まれたのだから、日本を愛しましょう。というのは理解できる。しかし、しかしだよ、「絶対的に愛さなければならない」なんての甚だおかしい。間違っている。そう言い切る。間違っている、と。 「サッカー日本代表が頑張っているから日本人全員応援しましょう」なんてのはサッカーを微塵も面白いと思わない、興味がない人にとっては強要以外の何物でもない。そのことで「非国民」という言葉が使われた時代のように扱われてしまったら、それは強要ではなく脅迫だ。 脅迫して愛させるなんてのは見当違いも甚だしい。それを教育や法に取り込むなんてのは、プロパガンダを使った洗脳によるファシズムと同じで酷いことだ。 国歌斉唱、桜を愛する、日本人なら日本人を応援する、というこれらのことを、これら一個の人間がそれぞれ独自に自由に解釈、感じることを強要するなんて私には理解できない。もちろんこれらだけが愛国心ではないが、これらがその一部でもあるのならば、私は愛さない。それを愛国心というのならば、決め付けるのならば愛さない。そんなナショナリズムなんてクソ喰らえだ。憲法9条改正も国民投票法案もクソ喰らえだ。 私は生まれ育ったこの国が好きだ。嫌いなところもある。それを感じるのは、思うのは私自身だ。私は誰かではなく私だ。私の好き嫌いは私自身が決める。他の誰かが決めることではない。 兄 |
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2007-01-25 Thu 16:52
『村井秀司の私が総理大臣になったなら…秘書Jr.。』
まさか2回目があるとは自分でも思っていなかったのですが、 今回は前回と違って大真面目です。 私が今回掲げるマニュフェストはこちら、 『給食費未納の親は児童虐待とみなします』 文部科学省が発表した調査結果によると給食費未納だったのは 約9万9千人、これは総児童生徒数の1.0%、 未納の児童生徒がいる学校数の割合は約43.6%だそうです。 給食費既納の児童生徒も給食費未納の生徒も給食を食べています。 つまり大部分の児童生徒はお金を払って食べ、 一部の、1.0%の児童生徒はお金を払わずに食べている。 給料泥棒ならぬ給食泥棒です。 例えるなら100階建てマンションの1フロアの住人が 家賃を払わずに住んでいるようなものだと思います。 そして問題、というか憤りを感じるのは払えるのに払わない親が いること。 国民年金は納めたからこそ受け取られる。 給食費は納めなくても、現状では給食は食べられる。 しかし「未納の児童生徒に給食を食べさせない」をするわけには いかない。いけない。 これを行ってしまうと「親」のせいで「子」が、本来「子」を 守るはずの「親」のせいで「子」に実感的責任を負わせることに なってしまう。 責任は「親」、「家庭」も負うのだが、実感的責任は「子」が 最も負ってしまう。 無料で給食を食べていれば非難をされてもしょうがない。 未納の「(払えるのに払わない)親」は非難されて当然だと思う。 しかし当事者の「親」だけではなく、「子」が非難されるのは 理不尽極まりない。 そこから「イジメ」に発展する可能性も大いにある。 もし「イジメ」に発展してもタダ飯で非難されれば、 「イジメ」を止める立場の人間も「本当の事、事実、既納の立場から すれば当然の非難」と思う、思ってしまう可能性がある。 つまり「イジメ」をする側の理由も「イジメ」をされる側の理由も 当然、その通りと思ってしまうかもしれない。 これではよくない。 給食の質を落とさなければいけないのもよくない。 だからこそ大胆な、極端なマニュフェストを掲げてみました。 給食費が本当に払えない場合には生活保護として国、自治体が 補助をします。 ※新聞に「未納の児童生徒」という表現で書いてあったので それに倣い書かせて頂きました。 児童生徒を責めるつもりは毛頭ございません。 兄 |
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2007-01-14 Sun 16:22
「平和ボケ」という言葉について少し考えてみました。
漠然とこの「平和ボケ」という言葉が嫌いだったので、 つまり『嫌い=否定』なので嫌いと言うならば、漠然とではなく 確り考えてみないことには『嫌い=否定』出来ませんので。 「平和ボケ」考究前の捉え方。 危機、平和について何も考えない、知らない、考えようとしない、 知ろうとしない状態、状況。 「平和ボケ」という語感、響きが良くない。 「平和ボケ」考究後の捉え方。 諸外国は日本が、唯一の被爆国である日本が「平和ボケ」と言います。 私もその意見に対して特に異論はありません。 然し危機、平和について何も考えない、知らない、考えようとしない、 知ろうとしない状態、状況が果たして悪いことなのか。 寧ろその状態、状況は良いことじゃないのか。 戦時下ならば殆どの人間が危機、平和について考える。 然しその状況から、戦争から、当事者としての戦争から離れていけば 感覚が薄らいでいくのは、決して真っ向から悪いと言える事では無い のではないか。 結論 「平和ボケ」とは平和である証拠、平和からなる産物。 悪く言えば危機感が無い、 良く言えば危機感を持つ必要が無い、 平和であるからこその状況、状態。 然し持つ必要が無いからと言って無知のままでは本当の「ボケ」です。 ソクラテスの考え方に『無知の知』というのがあります。 『真の知に至る出発点は無知を自覚することにある』 以上の文章はあくまで現在進行形の考え方、捉え方です。 然し「平和ボケ」という語感、響きは好きになれません。 兄 |
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